“読書”と“資格取得(今は司法書士)”と“音楽鑑賞”のメモ

 

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Posted on 18:03:47 «Edit»
2008
01/27
Sun

フーコー―主体という夢:生の権力 (入門・哲学者シリーズ 2) (入門・哲学者シリーズ 2) (入門・哲学者シリーズ 2)
フーコー―主体という夢:生の権力 (入門・哲学者シリーズ 2) (入門・哲学者シリーズ 2) (入門・哲学者シリーズ 2)貫 成人

おすすめ平均
starsいくら本が高くてもフーコーは読まねばならないことが解る
starsもし「哲学」の本を一生に一冊しか読まないつもりならフーコーを読むのがいい

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 これはよくまとまっている。何より良いのは、この本を読んだことでフーコーをじっくり読んでみたいと思えたことだ
 今まで思想的関心において彼の周辺をうろついてはいたし、何度も著作を手にしたが、感覚的に遠い距離を感じていた。興味があるのは『知の考古学』辺りの仕事で、権力論にはまるで興味がなかった。社会人になってしばらくたった今、フーコーの“権力論”こそ面白い!

 ヨーロッパにおいて民主的な国家観をはじめて完成したのは、イギリスの哲学者ジョン・ロック(1632ー1704)とされているが、ロックは各自がもともと所有権をもち、他人に危害を加えないかぎりで自由に振る舞える存在、すなわち自由な「人格」であると考えていた。
 ・・・(省略)・・・人間は、自由に選択して行為し、それゆえだれでも「自分だけが自分の主人」であり、他の誰かが自分の主人であることはありえない、というわけである。
 だが、それはとんでもない錯覚だ、とフーコーは言ったのである。自由な主体と言われていたものは、じつは近代における学校教育や工場その他で機能してた「生の権力」の規律化のメカニズムによって構築された存在にすぎない。主体といわれていたものは、ひとびとを規格化する力に従う存在である。
・・・(省略)・・・
 「主体」は、学校教育、軍隊、企業などにおいて、規範として外部から与えられたものを内面化するなかで構築されるが、その際、「各人は自由な主体であり、諸技能を身につけることによって一人前になる」といったエトスも同時に内面化される。その結果、規格品としての主体が大量生産されるのである。


 わたしもかつて若者らしく、純粋なる自由を欲し、独自の一個人であることを欲し、青春期的な哲学的苦しみにあえいだものだ。結局そこに、何かの回答を得たわけではない。疑問符を付したまま、今に至る。
 その点、本書を読んですっきりした。「自由を欲する」「オンリーワンのわたし」という発想自体、“わたし”の一機能であり、それは規格化されたものなのだ。そのことを問題化することが、規格化された“わたし”の存立を強化していたのだ。フーコー的にはそういうことなのかな。腑に落ちた。

 もう一つ気になったことがある。この種の議論、「権力に抵抗することが、当該権力関係を逆に強化する」式のものの言い方は、ポスト・モダニズムを匂わせる時事批評家が“ひねり”を演出する時の常套手段だが、これは、フーコーが元ネタだったわけか。

 福祉国家を映画『マトリックス』になぞらえているのは、痛烈で且つわかりやすかった。

 福祉国家とは、国家による国民の健康と生命を保証する仕組みとして、各個人にとってはまことにありがたいシステムであるかのように語られる。だがそれは、それぞれ独立して生きているとされる各個人が、福祉国家というシステムなしには、そもそもその生存さえできなくなる仕組みなのである。このようなシステムにおいて、各個人、各市民は「自由な主体」であると喧伝することは矛盾でしかない。まして、このような状況で、国家による保護や支援を訴えることが正当な要求だと信じ、そのように行動する人は、国家機械がひとびとに信じ込ませようとしている夢を強化するだけの存在、国家機械にとってはまことに都合の良い存在なのである。


 最初この部分は納得していたが、引用文を入力しながら何かおかしく感じた。
 主体が権力関係から逃れ得ない存在であってみれば、その権力に対し庇護を求める行動を自然なものであり、むしろ「自由」をもとめて自主独立を企てることの方が矛盾と言うべきだろう。そもそも「自由」があり得ないという話なのだから。
 また「国家機械にとってはまことに都合の良い存在」とは、国家に対し過大な福祉への要求をする主体ではなく、自らの窮境を「自己責任」として処理し、完結してくれる主体の方だろう。
 上記引用部分は、本書著者の意見だ。フーコーが福祉国家についてこのように考えているかどうかは本書を読むかぎりではわからない。
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テーマ: 哲学/倫理学

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